原宿のマンションの補修工事の時はわびしい思いをした。12月のクリス
マスの時だった。外壁の工事で家の中はいつもどおり人が住んでいた。冬の
夕暮れで分厚い黒い雲が空を覆っていた。風は無かったが気温は低かった。
私は屋上から椅子の形をした一人用のゴンドラで作業箇所まで降下してい
るところだった。3階の窓の外を通る時、中が見えた。家族でクリスマスの
パーティをするところだった。だいだい色の室内はそれだけで暖かそうだっ
た。ガラスは内側から少し曇っていた。外は暗く寒く室内は別世界だった。
若い母親がケーキを持ってテーブルの上に置くところだった。そこで顔を
上げて私と目があった。美人だった。その若い母親は一瞬固まって、すぐに
事態を理解したらしかった。私が軽く会釈してやり過ごそうと思った時、彼
女はまるで何も見なかったように、意識して(私にはそう思えた)明るい笑
顔で子供達に何か話しかけた。
病弱だった私の母はすでに亡くなっていた。それでもつらい現場仕事が終
わって一人帰宅するとき、元気だった頃の母の笑顔を思い浮かべ「ああ、あ
あ、寒かったろう」と言う母の声を思い出したりしていた。絵に描いたよう
に幸せそうなその母親は私を無視したのだった。私は下を向いて椅子のとこ
ろを握ったままゴンドラが降下していくのに耐えていた。
現場のバイトをしていた20代の前半、私はほとんど屋外で過ごしていた。
50歳の声を聞くようになった今、時折思い浮かぶのはそのころのことであ
る。体が覚えているのだった。
忘れられない情景もある。
これも冬、青山ビルのことだ。よく晴れた朝のことだった。ゴンドラのワ
イヤーを確認しに屋上へ上った。かがんで点検し顔を上げると、スモッグに
覆われた東京の空があった。その下にぎっしりと灰色のビルが立ち並んでい
る。その向こうに銀色に輝く固まりがある。遠い希望のようににぶく光って
いた。朝日を受けた東京湾だった。こんなところで海を見ることになるとは
思わなかった。息をつめて立ち上がり、しばらく見ていた。
松戸の高層ビルでは遠くに東京が見渡せた。東京の上空は暗い灰色にかす
んでいた。その空の下、新宿方面に建築中の高層ビル群が小さく固まってい
た。
その西新宿の住友ビルの最上階も工事した。ゴンドラは屋上の台車に乗っ
ていて、ワイヤーの安全確認はしなくてすんだ。下を見るとミニチュアのよ
うな車や人が動いていて、そこまで高くあがると現実感がなくなり、恐怖は
それほど感じなかった。
打ちっ放しのコンクリートの湿った匂いのする砂埃でざらざらした床の上
で着替えをし、昼食をとった。今でも歩いていて現場の外を通ると、その匂
いがして妙に懐かしくなる。
東京都内と近郊はその3年ばかりでほとんどまわった。一日の仕事が済む
と良くオヤジさんに誘われて、現場近くの屋台や立ち飲み屋で軽く飲んだ。
私は当時も今も酒は弱い。始めの頃、オヤジさんは何度も杯を勧めたが、私
が飲めないのが分かると手酌で飲んでいた。
職人生活の話はなかなか面白かった。若いときは、仕事が終わると女性が
相手をしてくれるようなところへ寄ることが多かったようだが、さすがにそ
ういう場所へ連れて行ってもらったことはない。
勿論オヤジさんは結婚していて、中学生の男の子の双子がいた。「おい、
ワシは酔った」という頃になると、立ち上がって勘定を払い外へ出るのだっ
た。私は口の中でごにょごにょと「ごちそうさま、、」とつぶやいたりした。
給料日に大井町にあるオヤジさんの家でごちそうになったこともある。オ
ヤジさんはビールをサントリーのレッドの大瓶で割って飲んでいた。それが
安く早く酔える飲み方のようだった。
99.3.9
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初出:F36通信 1999.3.
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あとがき:「ワシは酔った」という前にオヤジさんが必ず言うことがあった。
「おい、**」と私を呼び捨てにして「世の中、くだらないヤツが多すぎる」
と吐き捨てるように言った。それは世の中すべてを相手にして、お前たちは
くだらない!と断言する言い方だった。憤懣やるかたないという口調である。
私は黙って聞いていた。話の流れとは関係なくふと黙ったかと思うと、唐突
にこの激しいつぶやきは吐き出された。下手に同意することはできなかった。
この「くだらないヤツ」に渡り職人はもちろん入っているが、私も入ってい
るかも知れないのである。私が黙っていると、オヤジさんはひとりで激昂し
た自分に気づき、照れ隠しのように「ワシは酔った」と収めるのだった。
私もこの当時のオヤジさんの年齢になった。帰宅する通勤電車の中で車内の
雑誌広告を眺めていると、突然このオヤジさんのつぶやきがよみがえる事が
ある。奥歯、噛みしめ体中こわばらせて「世の中、くだらないヤツが多すぎ
る!」と言うその声が聞こえる。
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自伝シリーズ NO.55 私のバイト時代 (17) 2001.9.15 発行
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発行者:ぱーこ pahko-s@parkcity.ne.jp
発行所:ぱーこシティ http://www.parkcity.ne.jp/~pahko-s/
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